2020年7月3日金曜日

57 バーバラ・レイノルズ氏記念碑: Memorial Monument for Barbara Reynolds

57 バーバラ・レイノルズ氏記念碑

建立年月日
2011(平成23)年6月12日(除幕)
建立者
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター

形状
高さ約1.3m、幅約1m、厚さ約0.4mの黒御影石製の台座に、約0.8m四方の陶製の銘板がはまっている。
建立の目的
被爆後60年以上が経過し被爆体験の風化が懸念される中、「私の心はいつもヒロシマとともにある」という信念のもと、ヒロシマの世界化に尽力したバーバラ・レイノルズ氏の功績を顕彰するとともに、広島市民及び修学旅行生をはじめとする国内外の来広者に彼女の核廃絶への願いを継承することを目的とする。 

碑文(英文併記)
私もまた被爆者です 
I, too, am a Hibakusha
私の心は いつも ヒバクシャ ヒロシマ とともにあります
Hibakusha-they are the inspiration for all my peace effort My heart is always with Hiroshima
バーバラ・レイノルズ Barbara Reynolds (1915-1990)
広島市特別名誉市民 Special Honorary Citizen of Hiroshima
ワールド・フレンドシップ・センター創立者  Founder of World Friendship Center,Hiroshima 

特記事項
* バーバラ・レイノルズ(Barbara Reynolds)1915?1990
アメリカの平和運動家。1951年(昭和26年)に当時、原爆傷害調査委員会(現、放射線影響研究所)研究員だった夫とともに広島を訪れ、原爆被害の悲惨さを知った。1958年に、太平洋エニウェトク環礁の立ち入り禁止海域にヨットで乗り入れ、米国の水爆実験に抗議した。1962年から「ヒロシマ平和巡礼」、1964年には「広島・長崎世界平和巡礼」を実施。被爆者や学者等と共に世界各国を平和行脚した。



55 地球平和監視時計

55 地球平和監視時計

建立年月日
2001(平成13)年8月6日
建立者
NPO法人 広島からの「地球平和監視」を考える会
設計者  岡本敦(あつ)生(お)
形状
高さ3.1m、幅0.8m、奥行き0.4mのみかげ石製。
最上段には現在の時刻を示す丸い時計があり、中段には「広島への原爆投下からの日数」と「最後の核実験からの日数」のデジタル表示板、最下段には歯車装置が取り付けてある。
建立の目的
被爆体験の風化を防ぎ、繰り返される核実験の実施をけん制する意図で制作され、広島市に寄贈された。
特記事項
1. 日数表示
上下2段のデジタルの日数表示は、1段目が「広島への原爆投下からの日数」、2段目が「最後の核実験からの日数」を表しています。新たな核実験が行われるたびに、「最後の核実験からの日数」がゼロにリセットされます。 

2. 歯車装置
日数表示の下にある歯車装置は、このままいけば人類が破滅へ向けての「刻限」を刻み続けることを暗示的に警告しています。
歯車は縦に15個並んでおり、一番上の歯車の回転数(毎分100回転)が、地球の危機的状況の深刻化により早く回転し、固定されている一番下の歯車に達したとき、装置そのものも自壊するという発想で制作したものです。
この歯車の回転を止めるため、核兵器廃絶に向けて英知を結集し、軍事力に頼らない共生の時代を求めていかなければならないことを訴えています。 


56-55 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

56 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

建立年月日
2002(平成14)年8月1日
設置主体  厚生労働省
設計者
丹下健三・都市・建設設計研究所
形状
地下2階地上1階建
延床面積 3,099m2
設置の目的
国として、原爆死没者に対する追悼の意を表し、永遠の平和を祈念するとともに、原爆の惨禍に関する世界中の人々の理解を深め、被爆体験を後代に継承するために建設された。
特記事項
1. 「8時15分」のモニュメント
地上部の中央に、原爆投下時刻の「8時15分」を示すモニュメントを設置し、その周囲には、水を求めながら亡くなった犠牲者に捧げる水と、建設工事中に敷地内から出土した被爆瓦などを配置しています。 

2. 平和祈念・死没者追悼空間
地下2階には、円筒形の形をした吹き抜けの「平和祈念・死没者追悼空間」を設けています。ここは、原爆死没者を静かに追悼し、平和について深く思索するための空間です。被害の甚大さを表すため、爆心地である旧「島病院」付近から見た被爆後の街並みを、1945(昭和20)年末までの死没者数(約14万人)と同数のタイルを用いてパノラマで表現しています。
入り口のある地下1階からは、らせん状のスロープを下りていきます。スロープは反時計回りになっており、時間を現在から過去(被爆当時)へ遡りながら、「平和祈念・死没者追悼空間」へと導きます。 

3. 被爆体験記や原爆死没者の氏名・遺影の収集、公開など
被爆の実相を伝える手段のひとつとして、被爆体験記や原爆死没者の氏名・遺影を収集し、「遺影コーナー(氏名・遺影のみ)」や「体験記閲覧室」で、公開しています。この「体験記閲覧室」では、当時の写真や証言映像なども閲覧・視聴できます。
また、「情報展示コーナー」では、収蔵している被爆体験記を活用した企画展を開催しています。 そのほか、ボランティアによる被爆体験記朗読会も行っています。 


54 ローマ法王平和アピール碑

54 ローマ法王平和アピール碑

建立年月日
1983(昭和58)年2月25日
建立者
ローマ法王平和アピール碑建立委員会
制作者
杭谷一東(くえたにいっとう)(イタリア在住、広島県出身) 
形状
イタリアのカラーラ産白色大理石に、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の行った「平和アピール」の中から選ばれた一節が、和英両文で刻まれている。
碑は2枚の石を三角柱のように合わせ、上部の抽象彫刻像は、世界中が肩を寄せ合って調和と安定、共存を未来へ向けて志向する状態を表し、人類の平和への願いが込められている。(高さ3m、幅1.8m、奥行き0.9m) 
建立の目的
ローマ法王の「平和アピール」を造形して平和祈念の一つのよりどころにするため。

碑文(英文併記)
「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。」

特記事項
* ローマ法王の広島訪問と「平和アピール」
1981(昭和56)年2月25日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前において、核兵器廃絶を訴えた「平和アピール」は、全世界の人々に多大の感銘を与えました。
これを造形して平和祈念の一つのよりどころにしようと、被爆者の藤枝良枝(ふじえだよしえ)さんなどから声が上がり、同記念碑建立委員会が結成され、「平和アピール」から2年後の1983(昭和58)年2月25日、広島平和記念館1階ロビーで除幕式が行われました。 



52 平和の門

52 平和の門

設置年月日
2005(平成17)年7月30日
制作及び寄贈者
クララ・アルテール(フランスの芸術家)
ジャン=ミシェル・ヴィルモット(フランスの建築家) 
形状
高さ9m、幅2.6m、奥行き1.6mのガラス製10基の門が、東西75mにわたって、平和大通り北側にある平和記念資料館(本館)の柱と平行に立ち並んでいる。
鉄骨の枠組みを強化ガラスで覆った門とその足元の敷石には、18種類の文字と49の言語で「平和」の文字が刻まれている。夜には、ライトで各門の文字が白く浮かび上がる。 
特記事項
1. 「平和の壁」プロジェクト
この門は、フランス政府の後援により「平和の壁」プロジェクトを推進しているフランスの芸術家クララ・アルテール氏と建築家ジャン=ミシェル・ヴィルモット氏が、被爆60周年となる2005(平成17)年に世界平和を祈念して制作しました。
「平和の壁」プロジェクトは、世界平和を祈念し、世界の主要な言語で「平和」を書いた壁を世界の都市に設置、寄贈する事業です。広島市への寄贈もこのプロジェクトの一環で、形が「門」であることから、「平和の門」と名付けられました。

《「平和の壁」プロジェクト これまでの実績》
2000(平成12)年・・・フランスのパリ(ミレニアム事業) 形状は立方体(キューブ)
2003(平成15)年・・・ロシアのサンクト・ペテルブルク(建都300年記念)
形状は塔(タワー) 

2. 10基の門
10という門の数は、イタリアの詩人ダンテが書いた『神曲』の中に出てくる9つの地獄に、その当時では想像もしえなかった広島の被爆体験という生き地獄を加えたもので、この平和の門は、過去の悲惨な歴史をくぐり抜けて人類が平和な未来に向けて開かれていく希望を表しています。 



53-35-RV ノーマン・カズンズ氏記念碑

53 ノーマン・カズンズ氏記念碑

建立年月日
2003(平成15)年8月2日
建立者
ノーマン・カズンズ氏記念碑建設委員会
制作者  吉田正浪(まさなみ)(当時・比治山大学教授) 
形状
高さ約120cmと約80cmの二つの自然石から成っている。大きい石には、カズンズ氏のレリーフとともに、同氏の著書 Human Option(人間の選択)から引用した碑文が英文と和文で書かれたブロンズのプレートが取り付けられている。小さい石には、緑色の地にカズンズ氏と広島の関わりが金文字の日本語で記された銅板が埋め込まれている。
建立の目的
原爆や戦争で肉親を失った子どもたちの精神養子運動や被爆女性の米国でのケロイド治療に尽力し、核兵器の廃絶を世界に訴え続けたカズンズ氏の功績を称えるため。 

碑文(英文併記)
「世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である ノーマン・カズンズ」 

特記事項
* ノーマン・カズンズ氏(Norman Cousins)1915~1990
米国ニューヨークの文芸雑誌『土曜文学評論』の編集長として、1949(昭和24)年8月に広島を訪れ、ルポ「4年後のヒロシマ」を発表しました。そこには、原爆や戦争で肉親を失った子どもたちを育成する「精神養子」の考えも記されていました。これは、善意のアメリカ人が子どもたちと法的でない養子縁組を結び、養育費を送ることで子どもの成長を支えるというもので、約500人の子どもが精神養子となり、総額2,000万円の援助が行われました。
さらに1955(昭和30)年、被爆女性の米国でのケロイド治療に尽力し、25名がニューヨークのマウント・サイナイ病院で、世界的に著名な形成外科医バースキー博士らの治療を受けることになりました。
これらの功績を称えて、1964(昭和39)年には、広島市特別名誉市民の称号が贈られました。 


51-66 被爆動員学徒慰霊慈母観音像

51 被爆動員学徒慰霊慈母観音像

建立年月日
1966(昭和41)年7月31日
建立者
当時の市内21校旧制中学校・女学校生徒遺族有志
制作者  砂原放光
形状
高さ2mの青銅の観音像が、何段にも積まれた築山に立っている。
建立の目的
原爆被爆動員学徒の無残な犠牲に対し、その霊を慰めるため。
碑文
「観音となりて平和を守りゆく少年学徒らのみたま尊し 山本康夫」
「慈母観音に抱かれ眠る汝が姿心にえがきてわれら安らぐ 益田礼助」 
特記事項
1. 旧制中学校・女学校の碑
この碑は、広島市内の旧制中学校・女学校21校の生徒の慰霊碑です。それら学校の生徒4,000人の名前がネームプレートに刻まれ築山に納められています。 
2. 新教育制度6・3・3制と旧制中学校・女学校
1947(昭和22)年、教育の機会均等をめざして学制が変わり、6年制の小学校、3年制の中学・高等学校が確立しました。小学校とともに新制中学校(修業年限3年)が義務教育、男女共学となりました。
新制度になるまでは、国民学校(小学校)6年の義務教育を終えると、そのほとんどが国民学校高等科(2年限)に進むか、中学校(男子5年限)、女学校(女子4年または5年限)に進みました。 
3. 学徒勤労令
1944(昭和19)年8月、学徒勤労令が発せられ、旧制中学校・女学校以上の学生、生徒に対して軍需産業部での勤労奉仕が強制されました。
さらに同年11月、空襲による火災の拡大を防ぐ目的から消防道路、防空小空地を造ることになり、広島市内では133ヶ所の建物疎開作業の後片づけに国民学校高等科、中学校、女学校の生徒8,000人以上が出動し、被爆により約6,300人が亡くなりました。 





50_64 広島県農業会原爆物故者慰霊碑

50_64 広島県農業会原爆物故者慰霊碑

建立年月日
1971(昭和46)年8月6日
建立者
広島県農業協同組合中央会、広島県信用農業協同組合連合会、広島県経済農業協同組合連合会、広島県同栄社共済農業協同組合連合会、広島県厚生農業協同組合連合会
形状
高さ1m、幅2mの黒みかげ石製。
建立の目的
広島県農業会原爆犠牲者83人の慰霊のため。(原爆症による死亡者を含む)
碑文
「広島県農業会原爆物故者 慰霊碑」(揮ごう 農業会長 奥久登)
「昭和二十年八月六日午前八時十五分広島市上空に炸裂した一発の原子爆弾により全市は一瞬にして壊滅し阿鼻叫喚の巷と化す 猛火市井を襲って廃墟となり広島県農業会役職員八十余名尊き犠牲となる ここ広島支所の在りしゆかりの地に近く碑を建立して犠牲者の霊を祀る 昭和四十六年八月六日」
   (撰文  広島県同栄社共済農業協同組合連合会会長 行廣守)
   (揮ごう 広島県農業協同組合中央会長 伊藤實雄) 

特記事項
1. 広島県農業会
1942(昭和17)年9月、広島市役所の南側(現在の広島ナショナルビルの辺り)に近代的な木造2階建ての本所事務所が建設され、毎日200人余りの職員が勤務していました。 被爆当時判明しただけで職員71人が死亡、重傷者72人を数え、その後も多数の犠牲者が続きました。 

2. 広島県農業会広島支所
この慰霊碑の建っている場所に広島県農業会広島支所がありました。 元広島県農工銀行から譲り受けた建物で、国泰寺町に新事務所ができて本所事務所が移動したのち、広島支所として使用されました。6本の円柱が特徴的な4階建てのレンガ建築でしたが、原爆によって完全に破壊され、外壁の一部が廃墟として残るのみでした。厚いレンガ造だったため、しばらくは熱気で手がつけられず、1週間ぐらいたってからレンガを割り、その下にある遺骨を収容しました。 当日出勤していた支所長をはじめ、職員は全員犠牲となりました。 


48-63 広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑

48 広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑
【広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑】
 
1. 建立年月日
1967(昭和42)年8月2日
2. 建立者
広島ガス株式会社
3. 形状
高さ約2m、直径約1mの黒みかげ石造りで、円筒形の台の上にガス灯5基がともる。 
4. 建立の目的
全社員の犠牲者に対する祈りと平和の願いを込め建立された。 
碑文
「原爆犠牲者追憶之碑 1945年8月6日被爆 広島瓦斯株式会社」 

特記事項
1. 広島ガス株式会社本社建物の被災状況
同社の本社は、現在、追憶之碑が建つ場所にあり、爆心地から約250mの近い距離で、地上3階・地下1階建ての鉄筋コンクリート及びレンガ造りの建物は、すさまじい爆風により各階の床と天井が崩れ落ち、西側の一部を残して崩壊しました。 

2. 広島ガス株式会社社員の被災状況
同社の義勇隊員34人は、天神町(てんじんまち)・木挽町(こびきちょう)方面の建物疎開作業に出動中に全員死亡しました。
本社建物内にいた35人は数人を除き即死で、かろうじて生きのびた人もその後亡くなり全員死亡しました。また、当日、中国地方におけるガス事業統合のための会議に出席していた中国5県の他のガス会社の役員10人も犠牲になりました。 

3. 星野村「平和の火」と平和記念公園「平和の灯(ともしび)」を点火
2007(平成19)年8月6日、原爆投下後の残り火を燃やし続けている福岡県星野村の「平和の火」と、平和記念公園で採火した「平和の灯」を譲り受け、2つの火を合わせてガス灯に点火しました。 




49-62 石炭関係原爆殉難者慰霊碑

49 石炭関係原爆殉難者慰霊碑

建立年月日
1957(昭和32)年8月6日
建立者
全国の石炭関係業者
制作者 花見江南
形状
高さ1.2mの台石、蓮台の上に1.5mの石地蔵が立っている。(石は相州足柄山(あしがらやま)の本(ほん)小松(こまつ)石(いし))
建立の目的
石炭統制関係会社職員の犠牲者の冥福を祈るため。
碑文
「為原爆 殉難者 慰霊」 
特記事項
1. 石炭統制関係会社
元日本石炭株式会社、元中国石炭配給統制株式会社、元西日本石炭輸送株式会社が同じ建物に入っていました。 

2. 原爆地蔵さん
この慰霊碑は、当時石炭統制関係会社があった場所にあり、通称を「原爆地蔵さん」と呼ばれています。碑の中に、犠牲者76人の氏名をきざんだ銅板が納められています。 

3. 建立の経緯
被爆により、社員77人のうち女性1人を除いて全員死亡しました。これら犠牲者の冥福を祈って、生き残った社員が北海道から北九州にわたる石炭関係業者に呼びかけて浄財を集め建立しました。





46-59 原爆犠牲建設労働者・職人之碑

46 原爆犠牲建設労働者・職人之碑

建立年月日
1988(昭和63)年8月5日
建立者
全国建設労働組合総連合会・広島県建設労働組合
形状
「流れ造り」という日本古来の神社本殿の屋根の形を模してあります。その前後に大きく深く「慰霊」の文字を彫り、その下に心を寄せてこの碑を建立された全国建設労働組合総連合会と広島県建設労働組合の名を浮き彫りにしてあります。 
建立の目的
原爆の犠牲となられた建設労務者・職人とその家族の霊を慰めるとともに、今後再び核兵器の犠牲になる人をつくってはならないという誓いをこめて建てられた。 

碑文
正面:「慰霊」「原爆犠牲建設労働者・職人之碑」
碑陰:「全建総連に集結する43万人の総意にもとづき 原爆の犠牲になられた建設労働者・職人と家族の霊を慰め 地球上から一切の核兵器をなくし 平和で豊かな社会をつくることを念願しここに建立する
1988年8月5日 全国建設労働組合総連合会・広島県建設労働組合」 

特記事項
1. 広島県建設労働組合員数および被爆者健康手帳所持者数
この碑が建立された1988(昭和63)年当時、広島県建設労働組合員数は約12,500人(家族を含めて32,000人余)でしたが、被爆者健康手帳の交付を受けた被爆者はその内1,500人程度でした。
原爆による全体の被爆者数が今なお確認できていないように、この業界でも果して何人の方が犠牲になられたものかその正確な数は判りません。 

2. 広島・長崎での建立
全建総連43万人はその総意をもって、長崎市にもこの年8月8日に慰霊碑を建立されています。





47 原爆犠牲ヒロシマの碑

47 原爆犠牲ヒロシマの碑

建立年月日
1982(昭和57)年8月5日
建立者
原爆犠牲ヒロシマの碑建設委員会
制作者
芥川永(ひさし) (当時・比治山女子短大教授) 
形状
花崗岩の台座の上に、原爆瓦を組み合わせたパネルと碑文、その裏に、焦土広島のパノラマ写真、原爆瓦発掘作業のレリーフ、これに説明(和英)を加えた陶板がはめ込まれている。その上に「戻れない風」をテーマに昇天する犠牲者の魂を表現したブロンズ像が置かれている。(碑の大きさ:幅3m、高さ1.5m、奥行き0.7m) 
建立の目的
原爆により犠牲となった人々の叫びを永遠に記し、ヒロシマの心をあらわすとともに、戦争の悲惨さと核兵器廃絶の課題を学び、平和への決意を固めるため。 

碑文
「天が まっかに 燃えたとき わたしの からだは とかされた ヒロシマの叫びを ともに 世界の人よ」 

特記事項
1. 原爆瓦(被爆瓦)
爆心地に近い原爆ドームそばの元安川河床には、原爆の熱線で表面が溶けた瓦がたくさん埋まっていました。1977(昭和52)年以降、平和記念公園一帯で平和学習を続けていた広島県高校生平和ゼミナールの生徒たちは、数千点に及ぶこれらの瓦を掘り出しました。彼らはこれを「原爆瓦」と呼び、くずれた破片に犠牲者の叫び、苦しみを重ね合わせていたのです。 

2. 瓦の発掘と記念碑建設
1981(昭和56)年、広島市が元安川の美化工事にのり出した時、高校生たちは、瓦の発掘と平和への決意を固める碑の建設を呼びかけました。戦争も原爆も知らない世代が中心となってつくりあげたこの碑には、彼らの努力の結晶である「原爆瓦」がはめこまれています。 

3. 公募された碑文
碑文は、全国の小・中・高校生から寄せられた2,000点をこえる案の中から選定されたものを原案に、碑文作定委員会が作成しました。原案は被爆二世の蔵田順子さん(当時、安田女子高校生)が寄せたものです。 



44-0 元安橋(もとやすばし)

44 元安橋(もとやすばし) 

竣工年月日
1926(大正15)年
(被爆当時の橋)
架替年月日
1992(平成4)年5月25日
建立者 広島市
形状
旧   橋:全長49.9m、幅6.95m
架け替え後:全長56.4m、幅16m
特記事項
1. 被爆前の元安橋
もともとは、毛利輝元が広島城下を建設したときに架けられた橋で、輝元の祖父・毛利元就の子の元康(もとやす)が架け渡したことからその名が付けられたと伝えられています。被爆した橋は1926(大正15)年に架けられ、両岸の親柱の上には、しゃれた球形の飾り照明が、その間には照明灯が設けられるなど、当時としてはとてもモダンな造りでした。
飾り照明などに使われていた金属類は、すべて戦時中に供出され、親柱の上は石の点灯箱に替えられていました。 

2. 被災状況と爆心地の推定
橋げたは原爆に耐えましたが、親柱の上の笠石は左右逆方向にずれ、欄干も橋の両側にそれぞれ落ちました。この状況から、爆心地は橋の延長線上に位置すると推定されました。 

3. 架け替え
旧橋は被爆後40年以上にわたって利用されてきましたが、老朽化が進んだため、1989(平成元)年から架け替え工事が始まり、1992(平成4)年に開通しました。
架け替えにあたっては、被爆した親柱4基、中柱2基を利用し、竣工当時を再現したデザインとしました。 

4. 歴史の証人
元安橋東詰めには、被爆した旧橋の中柱2基が、歴史の証人として保存してあります。 





45 広島郵便局職員殉職碑

45 広島郵便局職員殉職碑

建立年月日
1975(昭和50)年8月
建立者
広島郵便局有縁の有志
形状
四国産の青石に碑文が記されている。
碑文
「殉職の碑  広島郵便局職員288名  原爆により殉職」 (広藤正人 筆) 
特記事項
1. 広島郵便局(通称 本局)
1871(明治4)年に広島の通信の中心として開設、1893(明治26)年に煉瓦造り一部モルタル塗り地上3階、地下1階のモダンな建物を建設、当時は「1に県庁、2に郵便局」と大評判だったそうです。場所は、島病院説明板(爆心地)と向き合った駐車場タワーのある位置で、三叉路に面して三階建てのモダンな時計塔を持つ正面玄関がありました。 

2. 被災状況
爆心直下だったためセ氏3,000~4,000度の高熱、1㎡あたり30tといわれる衝撃波に建物は一瞬で潰れました。内部にいた人達は光も音も感じる間もなく死亡されたと思われます。
その日の夕方には誰とも判らぬ多数の白骨と黒焦げの死体が瓦礫のそばに転がっているだけでした。 

3. 殉職者
当時は多数の男性職員が軍隊にとられて、戦場を離れていました。原爆の犠牲となった人の多くは、人手不足を補うために採用された女性や学徒動員の女学生、国民学校高等科の生徒たちでした。 

4. 「広島郵便局原爆殉職者之碑」
比治山公園多聞院境内に建てられた「広島郵便局原爆殉職者之碑」にはこの288人の名が深く刻まれています。
2000(平成12)年の新聞社の調査では、この他にも1人の女学生と育児室にいた8人の幼子の犠牲があったことが判りました。


43-0 爆心地・島(しま)病院(原爆被災説明板)

43 爆心地・島(しま)病院(原爆被災説明板) 

建立年月日
1933(昭和8)年8月31日(開院)
形状(当時の島病院)
近代的なレンガ造2階建てで、玄関の両サイドの丸柱と円形窓が印象的な建物だった。 
説明板
「テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラゲイ号」から人類史上最初に投下された原子爆弾は、この上空約600mで炸裂しました。爆心直下となったこの一帯は約3,000~4,000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。
時に1945(昭和20)年8月6日午前8時15分のことでした。」 
特記事項
1. 爆心地
当時:広島市細工町(さいくまち)29-2、島病院上空
現在:中区大手町一丁目5-24、島外科南側大手町第3駐車場上空
   東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高度約600m 

2. 原爆炸裂の瞬間
T字型の相生橋を投下目標にしたとされる原爆は、島病院の上空約600mで炸裂しました。小型の太陽ともいえる灼熱の火球は直径280mに膨れ上がり、中心温度はセ氏100万度を超えました。爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達し、秒速440mの爆風が吹きぬけました。(鉄の溶ける温度は約1,500度、太陽の表面温度は約6,000度) 

3. 爆心地の推定
熱線による影の方向を基礎データとし、その方向を地図上に落とし、交差する地点を爆心地としました。 

4. 島病院の被災状況
被爆当日、島病院の院長(島薫)は出張診療で不在だったため難を免れました。建物は瞬時に壊滅し、約80人と推定される患者・看護婦などの病院内にいた人は全員が亡くなり、姿は跡形もなかったといいます。 


42-8 動員学徒慰霊塔

42 動員学徒慰霊塔

建立年月日
1967(昭和42)年7月15日
建立者 広島県動員学徒犠牲者の会

設計者 村田相互設計
     円鍔勝三(えんつばかつぞう)(陶板) 
形状
 平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついている。塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場における作業状況」「広島の灯ろう流し」を表し、その裏に全国戦没学徒出身校352校の校名と動員学徒悼歌“ほのお果てては”が記されている。
建立の目的
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため。
碑文
「第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万人。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれたものは一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。」 

特記事項
1. 学徒動員
政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。
また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。
その他に市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となりました。 

2. 建立の由来
政府は、原爆や空襲などで亡くなった動員学徒のうち、氏名・死亡日等の判明した者に限り靖国神社への合祀を認めました。この塔は、それを受け、名簿作成運動を始めた遺族による募金によって建てられたものです。県外の出身学校名は、この建設運動の趣旨に賛同し、空襲などで亡くなった学生の名簿を送ってきた学校です。 


41-7 原民喜(はらたみき)詩碑

41 原民喜(はらたみき)詩碑

建立年月日
1951(昭和26)年11月15日
(11月15日は原民喜の誕生日)
建立者  原民喜委員会(日本ペンクラブ、広島文学協会)

設計者 谷口吉郎(よしろう)(当時・東京工業大学教授) 
形状
ついたて風のみかげ石。表には、民喜自筆の詩稿を黒みかげ石(当初は陶板)に刻みはめ込んでいる。裏側には、佐藤春夫直筆の撰文を彫った銅板がはめ込まれている。(高さ93cm、幅61.5cm、厚さ27.5cm)
建立の目的
生前、原民喜と親交のあった、作家や文学者たちが故人を偲んで建立。

碑文(撰文)
「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」 (原 民喜) 

特記事項
1. 原民喜
詩人原民喜は、40歳の時に幟町の生家で被爆しました。前年、最愛の妻と死別していた彼は、孤独と絶望に打ちひしがれながらも、生き残った者の使命として被爆の惨状を伝える作品を書き続けました。
しかし、朝鮮戦争が拡大、トルーマン大統領の「原爆の使用もありうる」との声明などに失望し、1951(昭和26)年3月13日、東京中央線の線路に身を横たえ自ら命を絶ちました。享年45歳でした。 

2. 『夏の花』
自らの被爆体験を記録的に小説にした、原民喜の代表作。
被爆した幟町の生家から逃れ、浅野邸(縮景園)で2日間野宿し、八幡村(現在の佐伯区五日市町)に移るまでの惨状をノートに記し、2年後に発表したものです。 

3. 詩碑の再建
詩碑は当初、亡くなった年の11月に広島城跡の石垣を背にして建てられていましたが、心ない人々の石投げの的とされ、表面の陶板は穴だらけとなり、裏面の銅板も盗まれてしまいました。現在の碑は1967(昭和42)年7月29日に修復移設されたものです。その後、一帯の歩道工事に伴い、2005(平成17)年5月21日、詩碑は約4m南に移設されました。その際に、陶板が黒みかげ石に替えられました。 


40-5 広島県地方木材統制株式会社慰霊碑

40 広島県地方木材統制株式会社慰霊碑

建立年月日
1967(昭和42)年8月6日
建立者
広島県地方木材株式会社旧役職員有志
碑文の筆者 曽根慶千
形状
大きな自然石の表面に「慰霊」、裏面に撰文が刻まれている。
建立の目的
殉職者の霊の冥福を祈るとともに、世界永久平和を祈願して
碑文
「このドームは第二次大戦時 わが国の木材統制機関であった広島県地方木材株式会社の本社として職員260名の本拠地であったが、昭和20年8月6日午前8時15分 至近上空に原爆投下され不幸にも役職員100余名がドーム内外に於いて被爆殉職した ここに原爆ドーム永久保存の決定をみて当時の社長田中好一氏の発起により生存の旧役職員集いその霊の冥福を祈ると共に世界永久平和を祈願して之を健碑する 併せて木材統制機関の日本木材株式会社広島支店及び広島船舶木材株式会社の殉職者を合祀する
 昭和42年8月6日 広島県地方木材株式会社 旧役職員有志」 

特記事項
1. 広島県地方木材統制株式会社
1944(昭和19)年7月、広島県内の地域木材統制会社を一本化し発足しました。当時、本社を広島県産業奨励館に置き、職員260人が働いていました。 
2. 広島県産業奨励館の変遷
戦争の長期化・深刻化とともに館内の展示は縮小されていきました。1944(昭和19)年3月31日にはついに館業務が廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社など官公庁や統制組合の事務所に使用されることになりました。 
3. 被爆当日~1週間後
前夜、空襲警報が発令されたため、1時間遅れで午前9時出勤と決められていましたが、郊外から出勤する職員たちはいつもどおり8時前に職場に着いていました。
原爆の投下によって、建物内にいた人は全員即死しました。
広島県地方木材統制株式会社は、1週間後には、キリンビアホールに仮事務所を置き、秋頃まで業務を続けました。 

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39 中国・四国土木出張所職員殉職碑

39-4 中国・四国土木出張所職員殉職碑
〔建設省(内務省)職員殉職碑〕 

建立年月日
1954(昭和29)年8月6日
建立者
建設省中国四国地方建設局職員一同
形状
自然石(高さ1.2m、横1.5m、呉市郷原町産出)でできた慰霊碑(供養塔)である歌碑と殉職者52人の名前を刻んだ石が設置されている。
碑文
歌碑:「原爆のいけにえとなりし人びとは、なごみゆく世のいしずえにして」
碑陰:「元内務省中国四国土木出張所職員52名は国民義勇隊として作業中昭和20年8月6日の原爆並びに戦災により、平和の礎となりこの地に眠る、昭和29年8月6日、建設省中国四国地方建設局職員一同建之」 

特記事項
1. 殉職者と被害状況
現在原爆ドームと呼ばれている広島県産業奨励館の3階全部と1階の一部を借りて入っていた出張所の職員93人のうち、牛田町官舎等へ疎開していた人たちを除き、殉職者52人(内訳は男性30人、女性22人で、そのうち庁内執務者13人、作業出動者32人、行方不明者7人でした。)と負傷者9人という大きな被害を受けました。 

2. 慰霊碑(供養塔)の歴史
1947(昭和22)年に木製で建立されましたが、1954(昭和29)年に自然石の歌碑(墓石)に取り替えられました。原爆ドームの敷地内は、広島平和都市建設法による公園指定地であるため墓碑の設置はできませんが、歌碑とすることで設置が可能になりました。歌碑には、当時の所長であった阿部一郎氏の追悼詩「原爆のいけにえと・・・」が刻まれました。 

3. 碑文の意味
「しだいに復興されていく新生日本の礎として、不運にも原爆でなくなられたかたがたを思うにつけ、この貴い犠牲を無にしないよう我々は、君達がねがいはたさなかった平和な国の建設に、より一層の努力を傾けたいと思う。どうかやすらかにお眠り下さい。」(建設省中国地方建設局(現在の国土交通省中国地方整備局)の資料より) 

4. 慰霊碑案内石柱
石柱「建設省(内務省)職員殉職の碑の地」は、1980(昭和55)年に(社)中国建設広済会によって建立されました。


 

38 広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑

38 広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑
【広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑】

建立年月日
1967(昭和42)年8月2日
建立者
広島ガス株式会社
形状
高さ約2m、直径約1mの黒みかげ石造りで、円筒形の台の上にガス灯5基がともる。 
建立の目的
全社員の犠牲者に対する祈りと平和の願いを込め建立された。 
碑文
「原爆犠牲者追憶之碑 1945年8月6日被爆 広島瓦斯株式会社」 

特記事項
1. 広島ガス株式会社本社建物の被災状況
同社の本社は、現在、追憶之碑が建つ場所にあり、爆心地から約250mの近い距離で、地上3階・地下1階建ての鉄筋コンクリート及びレンガ造りの建物は、すさまじい爆風により各階の床と天井が崩れ落ち、西側の一部を残して崩壊しました。 

2. 広島ガス株式会社社員の被災状況
同社の義勇隊員34人は、天神町(てんじんまち)・木挽町(こびきちょう)方面の建物疎開作業に出動中に全員死亡しました。
本社建物内にいた35人は数人を除き即死で、かろうじて生きのびた人もその後亡くなり全員死亡しました。また、当日、中国地方におけるガス事業統合のための会議に出席していた中国5県の他のガス会社の役員10人も犠牲になりました。 

3. 星野村「平和の火」と平和記念公園「平和の灯(ともしび)」を点火
2007(平成19)年8月6日、原爆投下後の残り火を燃やし続けている福岡県星野村の「平和の火」と、平和記念公園で採火した「平和の灯」を譲り受け、2つの火を合わせてガス灯に点火しました。 



36-32 旧天神町(てんじんまち)南組慰霊碑

36 旧天神町(てんじんまち)南組慰霊碑 

建立年月日
1973(昭和48)年7月15日
建立者
慰霊碑建設世話人会
制作者
吉田正浪(まさなみ)
 (当時・比治山女子短大講師) 
形状
矩形のみかげ石に、3人の天女の舞う銅板がはめこまれている。
建立の目的
旧天神町南組町民で原爆や戦争の犠牲となった人、被爆前に役員をしていた人など同町内にゆかりの深い人たちの慰霊のため。

銘文 「慰霊」
特記事項
1. 旧天神町
元安川にそった南北に細長い町でした。戦時下、隣組体制ができたとき、現在の平和大橋の付近を境に、北組、南組に分かれました。 

2. 原爆による天神町の被害
家屋     全壊全焼約100%
人的被害   即死者約100%
       (家にいた人、建物疎開作業などで外にいた人) 
3. 「旧天神町南組慰霊碑」の合祀(ごうし)数
190柱(1981(昭和56)年末現在)
 《内訳》
  ・原爆即死者         115柱
  ・戦死者           11柱
  ・町内の被爆前役員      30柱
  ・被爆生存者でその後の死没者 34柱

(関連情報:旧天神町北組慰霊碑) 





37 平和大橋・西平和大橋

37 平和大橋・西平和大橋 

建立年月日
1952(昭和27)年6月3日
建立者 広島市
設計者
イサム・ノグチ
(アメリカの彫刻家) 
形状
平和大橋 :全長85.6m、幅15m
西平和大橋:全長101.9m、幅15.3m 
特記事項
1. 平和大通りと橋の位置
1949(昭和24)年に制定された広島平和記念都市建設法により、平和記念公園の南側には、市の中心部を東西に貫き、中央に車道、両側に緑地帯と歩道のある幅員100mの道路が建設されました。1951(昭和26)年11月、市民公募により平和大通りと名づけられ、供木運動で緑地帯の植樹も進みました。
この平和大通りの平和記念公園への導入路に架けられたのが、元安川に架かる平和大橋と本川にかかる西平和大橋です。 

2. 「平和大橋」の名称
橋の名称は、懸賞応募による1,400余点の中から決められました。 

3. 奇抜なデザイン
あまりに奇抜なデザインのため、市議会をはじめ市民から「イモ虫みたいな欄干で子どもが川に落ちて危ない」などの反対意見が出され、結局、欄干は当初設計より20cm高く変更されました。
丹下健三東大助教授(当時)は「私の設計した平和記念公園を引き立てる立派な橋だ」と賞賛しました。 

4. 工事費
総工費約1億円のうち、10%は欄干に要しました。
「広島平和記念都市建設法」の成立をきっかけに、アメリカの対日援助資金を受けて建設されたこの両橋は、他の平和記念施設の建設に比べ短期間で完成しました。 

5. 橋のイメージ
設計者のイサム・ノグチが、1984(昭和59)年に広島市を訪れた際に、次のように説明しています。「平和大橋は生を象徴する太陽の形を、西平和大橋は犠牲者が黄泉の国へ船出する死の象徴として船の竜骨をかたどった」 


35-33 広島市立高女原爆慰霊碑

35 広島市立高女原爆慰霊碑
(広島市立高女・・・広島市立高等女学校(市女)。現在の広島市立舟入高等学校)

建立年月日
1948(昭和23)年8月6日
建立者
広島市女原爆遺族会
制作者
河内山(こうちやま)賢祐(けんすけ)(彫刻家) 
形状
高さ1.77mの万成石(まんなりいし)の碑で、正面には3人の少女のレリーフ、碑陰には、当時の宮川校長の弔歌が刻まれている。
建立の目的
原爆の犠牲となった職員生徒の慰霊

銘文
「友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよ このくさ山に」 (宮川雅臣) 

特記事項
1. 市女の犠牲者
現在の平和記念資料館~平和大通り一帯(爆心地から約500m。当時は材木町(ざいもくちょう)~木挽町(こびきちょう))の建物疎開作業に来ていた1、2年生541人、職員10人は、全員が亡くなりました。
同校では他の動員先を含め、676人が被爆死し、市内の学校では最も多くの犠牲者を出しています。(碑の裏の短歌作者は当時の校長です。) 

2. レリーフの説明
中央でE=MC2と刻んだ箱を抱え、天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は犠牲となったことを表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られています。 

3. 「E=MC2」
原爆の原理になったアインシュタインの相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式です。連合軍の占領下、「原爆」という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。 

4. 碑の移設
1946(昭和21)年、現在の平和大通りの場所に木碑の供養塔が建てられ、3回忌まではそこで慰霊祭が行われていました。
現在の碑は、1948(昭和23)年に学校の奉安殿跡の草山に建てられたものです。当時は占領下で慰霊碑の建立が許されず、「平和塔」の名で建立されました。被災地近くの現在地に移設されたのは、13回忌の1957(昭和32)年6月20日です。
なお、当初の木碑供養塔は、1950(昭和25)年に都市計画のため、木挽町にあった持明院(じみょういん)に移され、1951(昭和26)年には境内に「市立高等女学校原爆追悼碑」が建立されました。1967(昭和42)年、持明院の東区戸坂千足への移転に伴い、追悼碑も移設されました。


34-30 友愛碑

34   友愛碑
建立年月日
1965(昭和40)年8月3日
建立者
日本損害保険協会広島地方委員会
制作者
彫刻 辻晉 堂 (当時京都市立美術大学教授) 
    台石 岩崎豊 (当時岩崎大理石工業所)
形状
ブロンズ製の彫刻と、万成石の台石からなり、彫刻の十字形は東西南北の人間がをつないでいる姿を表し、平和を希求する全世界の人びとの愛と良心のつながりを表現している。全世界の人びとから冥福の祈り受けている形となっている。(高さ3.3m)
 
建立目的
日本損害保険協会加盟会社の原爆犠牲者89人の慰霊と平和への礎を祈念するため。

銘文 「友愛」(揮ごう 日本損害保険協会会長 高木幹夫)
特記事項
1. 原爆による犠牲者
 当時、多くの損害保険会社は今の平和記念公園近辺にあり、午前8時15分始業だったことから、事務所や堆錦途上で被爆して行方不明になった職員も多くいた。当時約200人いた職員のうち、79人が年の12月までに亡くなりました。
2. 原爆と戦争保険
  政府は太平洋戦争開戦直後、戦争保険臨時措置法を公布し、戦闘行為に基づく火災、損壊による損害を保証する戦争保険を設けました。当初は、市民も空襲の実感が無く、保険金の支払も原則即時払いではなかったため、申込みは少くなかったのですが、1944(昭19)4月、戦時特殊損害保険法が施行され、火災保険契約に強制付帯するようになったことと、大都市への空襲が始まり、広島市民も一斉に申込みを始めたため、損害保険会社は連日繁忙をきわめました。
 原爆投下後、人びとの不安を収めるため、8月10日頃から焼け残った日銀店内に各社の合同支払事務所を設け、保険金の即時支払事務が行なわれました。
3.  8月4日の慰霊祭 
 毎年8月4日には、遺族、広島市内の小中学校の児童・生徒代表、教育関係者が多数参加して慰霊祭を行っています。

4. 慰霊碑としての碑文 
 将来のことを考え、単なる墓石ではなく広く市民に親しめるよう、碑文は「友愛」という表現とし、抽象的なデザインとされました。
 「原爆にたおれた損害保険関係犠牲者の霊を慰め、謹んでこの像を捧げる昭和43年8月3日 日本損害保険協会 広島地方委員会」という追悼文と犠牲者芳名などを銅版に刻み、銅製の箱に密封して、彫刻と台石のつなぎ目に埋め込んであります。


33-28 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

33 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

建立年月日
1971(昭和46)年8月4日
建立者
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会
制作者
芥川永(ひさし)(当時・比治山女子短大教授)
形状
ぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれ空を見上げている。(高さ2.4mのブロンズ像)
建立の目的
原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表す。
銘文
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」(正(しょう)田(だ)篠(しの)枝(え))
特記事項
1. 国民学校改名と学童集団疎開及び建物疎開
1938(昭和13)年国家総動員法により、学校も戦争体制になりました。1941(昭和16)年の国民学校令により呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。
戦争が激しくなると、都市部の初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられました。
幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の犠牲になりました。(この頃の夏休みは、8月10日から20日まででした。) 

2. 犠牲となった国民学校教師・子どもの数
正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。

3. 8月4日の慰霊祭
毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。

4. 「太き骨は先生ならむ・・・」
この短歌は、1946(昭和21)年に被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からとられたものです。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。







32-29 平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)

32 平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)

建立年月日
1966(昭和41)年5月9日
建立者 広島南ロータリークラブ 

制作者  円鍔(えんつば)勝三(かつぞう)(彫刻家) 
形状
少女を見上げている小鹿に少女が左手をさしのべ、今にも駆け出しそうな姿で立っている。(高さ1.8mのブロンズ像) 
建立の目的
広島南ロータリークラブ創立10周年を記念して建立された。
銘文
「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」(湯川秀樹) 
特記事項
1. 「まがつび」
「禍つ日の神」の略で、災害・凶事を起こす神。イザナギノミコトがお祓いの時、汚垢から化成した神。(広辞苑) 

2. 湯川秀樹博士
「中間子理論」を確立した日本初のノーベル賞(物理学賞)受賞者。 1954(昭和29)年アメリカの水爆実験に衝撃を受け、以後、世界科学者会議(パグウォッシュ会議)を開催するなど核兵器と戦争の廃絶を訴え続けました。
「私は、真理の探求ということを誇りに思うし、自信を持っているし、私は一生それを貫いてきた。何の悔いもない。けれど、8月6日のあの事件を聞いたときに、科学者は科学者としての自分に対する責任があることを知った。」(湯川秀樹) 

3. 円鍔勝三
広島県御調町生まれの彫刻家。「若葉」のほか、「動員学徒慰霊塔」、JR広島駅前の「友情」など、多くの平和モニュメントを制作しています。 


31-39 嵐の中の母子像

31 嵐の中の母子像

建立年月日
1960(昭和35)年8月5日
建立者
広島市婦人会連合会
制作者
本郷新(しん)(彫刻家)
形状
右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で生き抜こうとする母の姿を表す。(高さ1.5m、幅1.6m、奥行き65cmのブロンズ像)
建立の目的
核兵器廃絶への限りない努力を呼びかける。

特記事項
1. 石こうの像
1959(昭和34)年、第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折、原水爆禁止日本協議会から当時の浜井広島市長に、原水爆禁止運動推進への感謝のしるしとして、この像の原型となった石こう像が贈られました。 

2. ブロンズ像へ
その後、この大会の成功のために尽力した広島市婦人会連合会が「平和記念公園への設置」を呼びかけ、ブロンズ像にするための募金活動を行い建立され、広島市に寄贈されたものです。
襲いかかる業苦に耐え、悲しみを乗り越えていく母親の強い愛情を示す像に市民の平和への願いを託しています。 

3. 本郷新
札幌出身の彫刻家。「わだつみの像」をはじめ、人間愛に満ちた多くのモニュメントを残しています。
像の原型となった石こう像は、現在、札幌市にある本郷新記念館(札幌彫刻美術館)に展示されています。 



29-34 マルセル・ジュノー博士記念碑

29 マルセル・ジュノー博士記念碑

建立年月日
1979(昭和54)年9月8日
建立者
ジュノー博士記念碑建立会
制作者
芥川永(ひさし)
(当時・比治山女子短大教授) 
形状
長方形の台座の上に、黒みかげ石の十字型の碑。博士のレリーフの左右に日英の碑文が刻まれている。(高さ93cm、幅1.6m) 
建立の目的
被爆者救護に人道的立場から尽力した博士の功績をたたえるため。

碑文(英文併記)
「1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日 広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍総司令部へ行きヒロシマ救援を強く要請
9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を踏査 自らも被爆市民の治療にあたる
博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布 数知れぬ被爆者を救う 博士の人道的行為に感謝し 国際赤十字のヒューマニズムを讃え永く記念してこれを建てる」 

特記事項
1. マルセル・ジュノー博士(Dr. Marcel Junod)1904~1961
スイスの医学者。1945(昭和20)年8月9日、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日した博士の当初の目的は、連合軍捕虜などの動静を調査することでした。
しかし、原爆被害の惨状を知ると直ちに連合国最高司令官総司令部へ救援を要請し、調達した医薬品を持って9月8日に広島入りしました。現地では、被害調査に当たるとともに自らも治療に携わりました。 

2. 裏面の碑文
「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている
M.ジュノー著「第三の兵士」より」


30-40 祈りの泉

30 祈りの泉

建立年月日
1964(昭和39)年11月
建立者 広島銀行 
形状
平和記念資料館本館の南側の広場で、原爆ドームと原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)とを見通すことのできる直線の上にある。東西27m、南北19mの長円形の池に多数の噴水を設け、夜間は色彩照明を行う。 
建立の目的
「水を水を」と言いながら息絶えた原爆犠牲者の御霊に捧げ、慰める心を込めて建設された。
碑文 「祈りの泉」 
特記事項
1. 大噴水
1964(昭和39)年11月、広島銀行が建設し、広島市に寄贈しました。
当時、西日本一の豪華な噴水と言われ、東西27m、南北19m、合計567本の噴水口が設けられ、毎分11トンの水を10mの高さまで噴き上げています。夜間は赤、青、黄、緑、乳白色の水中カラーランプ153灯の照明で彩られます。 

2. 大噴水ができる前
現在の大噴水がある場所には、最初は小さな噴水池がありました。 噴水池は1958(昭和33)年4月、広島復興大博覧会をきっかけに、会場となった平和記念資料館(現在の本館)の南側正面に設置されました。
当初は博覧会のテーマ塔を建てる予定でしたが、たまたま協同組合連合会日本専門店会連盟から「原爆犠牲者の弔慰のための施設に使用してほしい」ということで広島市に100万円の寄付金が寄せられており、検討の結果、原爆犠牲者へ水供養する意味で、噴水池をつくることになりました。
噴水池は円形で、内径は11m、中央に1本、周囲に8本の噴水口があり、それぞれ約4mの高さに水を噴き上げるようになっていました。 


28-36-RV 朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計

28 朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計 

建立年月日
1959(昭和34)年12月14日
建立者
広島県在留朝鮮人帰国者
形状
台石(コンクリート造、高さ20cm、幅71cm、奥行70cm)の上にポールを立て時計(高さ約5m)を設置している。
建立の目的
平和祈願と朝・日友好のしるしを日本の土地に残して帰国する記念のため。 

特記事項
1. 日・朝赤十字による帰国に関する協定
1959(昭和34)年8月13日、日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会の代表による、在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国への帰国に関する協定が調印・成立しました。この協定により、在日朝鮮人帰国の道が開けました。(協定の有効期間は1年3ヶ月で、希望者に限るものでした。) 

2. 帰国に向けての出港
1959(昭和34)年12月14日、第一船が新潟港を出港。広島県内の帰国者は12月17日(第二船56人)、12月24日(第三船23人)に広島駅を出発し、新潟港より帰国の途につきました。 

3. 朝・日友好のしるし
この時計塔は「朝・日友好のしるしを日本の土地に残そう」と、帰国した人たちを中心に約20万円の資金で建設され、広島市に寄贈されました。
最初は市公会堂(現在の国際会議場)の南側緑地帯に建てられましたが、平和記念公園整備に伴い、現在地に移設されました。 






広島原爆ドームの光と陰