2020年7月3日金曜日

35-33 広島市立高女原爆慰霊碑

35 広島市立高女原爆慰霊碑
(広島市立高女・・・広島市立高等女学校(市女)。現在の広島市立舟入高等学校)

建立年月日
1948(昭和23)年8月6日
建立者
広島市女原爆遺族会
制作者
河内山(こうちやま)賢祐(けんすけ)(彫刻家) 
形状
高さ1.77mの万成石(まんなりいし)の碑で、正面には3人の少女のレリーフ、碑陰には、当時の宮川校長の弔歌が刻まれている。
建立の目的
原爆の犠牲となった職員生徒の慰霊

銘文
「友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよ このくさ山に」 (宮川雅臣) 

特記事項
1. 市女の犠牲者
現在の平和記念資料館~平和大通り一帯(爆心地から約500m。当時は材木町(ざいもくちょう)~木挽町(こびきちょう))の建物疎開作業に来ていた1、2年生541人、職員10人は、全員が亡くなりました。
同校では他の動員先を含め、676人が被爆死し、市内の学校では最も多くの犠牲者を出しています。(碑の裏の短歌作者は当時の校長です。) 

2. レリーフの説明
中央でE=MC2と刻んだ箱を抱え、天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は犠牲となったことを表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られています。 

3. 「E=MC2」
原爆の原理になったアインシュタインの相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式です。連合軍の占領下、「原爆」という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。 

4. 碑の移設
1946(昭和21)年、現在の平和大通りの場所に木碑の供養塔が建てられ、3回忌まではそこで慰霊祭が行われていました。
現在の碑は、1948(昭和23)年に学校の奉安殿跡の草山に建てられたものです。当時は占領下で慰霊碑の建立が許されず、「平和塔」の名で建立されました。被災地近くの現在地に移設されたのは、13回忌の1957(昭和32)年6月20日です。
なお、当初の木碑供養塔は、1950(昭和25)年に都市計画のため、木挽町にあった持明院(じみょういん)に移され、1951(昭和26)年には境内に「市立高等女学校原爆追悼碑」が建立されました。1967(昭和42)年、持明院の東区戸坂千足への移転に伴い、追悼碑も移設されました。


広島原爆ドームの光と陰