33 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
建立年月日
1971(昭和46)年8月4日
建立者
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会
制作者
芥川永(ひさし)(当時・比治山女子短大教授)
形状
ぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれ空を見上げている。(高さ2.4mのブロンズ像)
建立の目的
原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表す。
銘文
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」(正(しょう)田(だ)篠(しの)枝(え))
特記事項
1. 国民学校改名と学童集団疎開及び建物疎開
1938(昭和13)年国家総動員法により、学校も戦争体制になりました。1941(昭和16)年の国民学校令により呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。
戦争が激しくなると、都市部の初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられました。
幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の犠牲になりました。(この頃の夏休みは、8月10日から20日まででした。)
2. 犠牲となった国民学校教師・子どもの数
正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。
3. 8月4日の慰霊祭
毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。
4. 「太き骨は先生ならむ・・・」
この短歌は、1946(昭和21)年に被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からとられたものです。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。