2020年7月3日金曜日

14 中島(なかじま)地区〔原爆被災説明板〕

14 中島(なかじま)地区〔原爆被災説明板〕 

中島地区の概要
中島地区とは、現在の平和記念公園一帯のことをいい、幕末から明治・大正・昭和にかけて、市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街でした。
元安川と本川に囲まれたデルタに位置し、中島(なかじま)本町(ほんまち)、天神町(てんじんまち)、材木町(ざいもくちょう)、木挽町(こびきちょう)、元柳町(もとやなぎちょう)、中島(なかじま)新町(しんまち)、水主町(かこまち)などで構成されていました。
1945(昭和20)年8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾は、この地区の頭上で炸裂しました。地区の住民はもとより、当時この付近で建物疎開作業に従事していた多くの国民義勇隊と動員学徒が非業の死を遂げ、街並みも一瞬のうちに消え去ってしまいました。 
建設の目的
無くなった町に対する惜別の情と犠牲者への慰霊のため。 
特記事項
1. 被爆前の人口、主な建物
7町の人口は6,500人と推定されています。
主な建物としては、中島集産所、中島勧商場、公設市場、県庁、武徳殿、県病院、中島国民学校のほか、慈仙寺(じせんじ)、誓願寺(せいがんじ)などがありました。 

2. 中島本町
寺院、料亭、呉服店、医院、薬局、会社などをはじめ、東京浅草の仲店のようなぎっしりと軒をならべた商店、映画館があって非常に賑わっていました。 

3. 天神町
川船が岸に群がり集まって、旅客や貨物の出入りが盛んであってか、古くは「船町」と言われていました。後に町内に天満宮が祀られ、天神町と呼ばれるようになりました。 

4. 材木町・木挽町
かつて川沿いに材木の集積が行われたところで、材木を積んだ船やいかだが太田川を下ってきてここに荷をおろしていました。大正以後、陸上交通が急速にひらけてさびれましたが、中島本町に続く住宅街であり、ゆったりとした住宅の間に、鳩の多い誓願寺をはじめとして歴史の古い寺が建ちまじり、平和な下町情緒が町のすみずみに漂っていました。 

5. 元柳町
「知新集」に「往古柳の大木土手根にありしゆえ」とあり、後に開かれた東柳町(ひがしやなぎまち)(現在の南区稲荷町)に対し、元柳町と呼ばれていました。本川河岸に面した、こぢんまりとした下町でした。 
6. 中島新町
古くは、新町筋とあり、後に中島新町となりました。明治には、市役所、市会議事堂が置かれ、昭和初期に国泰寺町の現在地に移転するまで、市政の中心でした。 

7. 水主町
旧藩時代からの由緒ある町で、県庁を中心として一種の風格をもった屋敷町を形成していました。 
関連情報:旧天神町北組慰霊碑、材木町跡碑、旧天神町南組慰霊碑




広島原爆ドームの光と陰