21 旧天神町(てんじんまち)北組慰霊碑
建立年月日
1973(昭和48)年2月
建立者
旧天神町北組町民
形状
花崗岩でできた碑の前面に碑文、上部に犠牲者の名前が記されている。
建立の目的
消えた町と、犠牲となった町民たちの名前をとどめ、冥福を永く祈るため。
碑文 「昭和20年8月6日 噫」
特記事項
1. 天神町北組
天神町は南北に細長く、北組・南組に分かれていました。町は市内の繁華街の中心として栄えた中島(なかじま)地区の一角で、商店街として多くの人が生活する活気あふれる町でした。その様子は、碑と並ぶ「旧天神町北組の跡」という説明板に記されています。(南組の碑は、平和大通り南側の元安川河畔にあります。)
2. 消えた町
天神町は爆心地からわずか500m、一瞬にして家屋は全壊、住民はもちろん、隣接する町とともに建物疎開地域に指定されていたため、作業に動員されていた中学生や女学生も全員即死したといわれています。火災は激しく、夕方、肉親を探して戻ってきた人も入ることができなかったといいます。焼け野原と化した町は、戦後、平和記念公園となったため、その姿を消しました。
3. 梅の木
1970(昭和45)年、NHKによる爆心地復元作業をきっかけに、なくなった町のシンボルとして1本の梅の木が植えられました。梅が選ばれたのは、天神町にあった満松院(まんしょういん)菅神社(かんじんじゃ)ゆかりの樹であったためです。
4. 碑の移設
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の建設に伴い、1999(平成11)年当初よりやや南側の現在地へ移設されました。